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2010年12月8日水曜日

【ためいき】会釈をする発想はなかった…という新任教師

昨日のエントリーを読んだ卒業生(といっても、もう立派な大人です)からメールをもらいました。

石橋を叩いて壊すオトコ: 【ためいき】待たずに食べ始める子

卒業生のメールの一部を引用すると
昔、先生が給食を一番につけられなくて怒って職員室に行った事が脳裏を駆け巡り、俺たちにもあったな~~とと懐かしく感じました!
これは、「私の分の給食を配膳し忘れたこと」に対する、私なりの異議申し立てのことを指しているのですが、まあ、そういうようなことは昔から一年に一度はありました。ですから、彼が「俺たちにもあったな〜」と感じることには納得するのですが、そして、昨日のエントリーを読んだ方の中にも(同じようなことがあったなあ…)と感じた方がいただろうということも想像はできるのですが、でも、私が大きくためいきをついてしまったのは、質的に随分大きな違いがあることを実感しているからです。

卒業生のメールにあったようなことは、まあ、言ってみれば「たまたまそういう失敗をしてしまった」ということであり、「これから気を付けよう」と思えばすむことです。

しかし、昨日書いたように、学級の3分の2が「そんな指導を受けたこともない」という状況は、「これから気を付けよう」ではすまないんですね。だって、それに問題があるとは思っていないのですから。何も知らないのですから「センセイは何を怒っているの?」という無邪気なまでの視線を向けてくるのは当然かもしれません。

いわゆる躾の面で、私たち大人(「教員」ではなく、大人全般)が(これくらいのことは…、こんなことまで口やかましく言わなくてもいいだろう)と思っていることの大部分は、実は、子どもたちには身に付いていなくて、欠落したまま「大人」になっていくのです。そういう危機感の一例として書きました。

1か月くらい前に、新任の教員を叱りました。彼女は、あいさつができなく、返事の声も小さく(ちょっと問題があるなあ)と感じていたからです。まあ、しかし、私は彼女とは学年も違うし、普段生活している校舎も違うので(当然、その種のことは新任担当や管理職から指導を受けているはずだから、自分が出しゃばるようなことも必要ないだろう)と思っていました。

そう思っていたのですが、何度すれ違ってもあいさつはできない、会釈もできないということが続いたので、(これはいくらなんでもひどすぎるだろう)と思い、はっきりと注意しました。

その日の勤務が終わる頃、彼女は私の教室に改めて謝罪に来たのですが、そのときに

「ああいう場面で会釈をするという発想は私にはありませんでした」

と、特に悪びれることなく言ったので、私はびっくりしてしまいました。つまり、彼女は、社会人になるまでそういう指導を受けていなかったということです。これには驚きました。

私は、その時には、彼女は「特殊な例」だろうと思ったのですが、先日の給食の際に自分のクラスで起こったことを前にした時

(だいじょうぶ、だいじょうぶ。こんなことはきっとだれかが指導してくれているはず。自分が口やかましく言わなくてもだいじょうぶ)

なんてノンキことは言っていられないと思ったのでした。継続的に子どもたちの変化を見ている私たち教員の中には、私と同じような危機感を持っている人は間違いなくいるはずです。

このような面での子どもたちの質は間違いなく低下しています。残念ですが、それが事実です。そして、それを改善するのに「道徳の授業を充実させるべき」なんてことを言っていてはだめです。

そこにいるオトナが、その都度口やかましく子どもたちに言い続けることが大切です。大人は全員が子育ての当事者です。「道徳の授業を…」なんて他人事のように言っているのではなく、そこにいるオトナが、しつこく、粘り強く言い聞かせていく必要があると思います。

■仕事で押しつぶされそうな毎日ですが、間もなく峠を迎えます。

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